葵の花が零れるころに、【第三回】

【第三回】

 どこまで行こうか。

 葵。あなたとともに行けるなら、どこまででも行ける。

 あなたのためなら。僕はどこまででもどこへでも行ける。

 そう話したら、あなたは嬉しそうに笑った。とても嬉しそうに、笑った。

 ……笑顔の裏に、酷く寂しそうな心があると、思った。

 陰りのある笑顔、というほどではない。どこかに違和感を覚えただけだ。それでも、違和感の中身は笑顔と真逆の感情である、寂しさなのではないかと察した。

 すると。

「ねえ、きみさ」

 笑ったあと、僕の表情を見て――葵の寂しそうな心を察して、曇らせた僕の表情を見て。

 いつもの葵らしくない、強い怒りの感情を(あらわ)にした

 灰色の、ときに青みがかったように澄み渡る虹彩が、怒りの炎を灯している。彩雲がゆらめいたかのように、ぎらりと光った。

 え、と。間の抜けた声が僕の喉から洩れる。

 何を、と思っていながら慌てていると、葵は雑に組んでいた脚を解いて椅子から立ち上がり、僕の方へ歩み寄って右腕を使って壁に(はりつけ)にした。

 磔、と言っても、僕の顔の右側に葵の左腕が、僕の両足の間に葵の左脚が突き刺さっただけだ。

 逃げようと思ったら逃げられるだろう。だが、僕に突き付けられた葵の冷たい炎の眼差しが、僕を逃がさなかった。

「何を考えた?」

 恐ろしい声に、総毛立つ。

 いつも甘い声で話す葵の声が、鋭い針のように僕の心を射る。痛みで、僕の額に、背中に、全身に、嫌な汗がまとわりつく。

 息が苦しい。肺の中で(かび)蔓延(はびこ)っているような感覚。それでも、咳をすることさえも許されない。

 何もない。

 応える声が震える。頭蓋の中が空になっていくのを感じた。脳味噌は脂肪と蛋白質となって流れていってしまったのか。きっと、その脳味噌は今、僕の喉を通り抜けていったのだろう。飲み込んだものが空気なのだとしたら、こんな味は、感触は、しないはずだ。

「何を、考えたの」

 葵が口に出す尖った声が、僕のことを追い詰める。

 僕よりもずっと身長が低いはずの葵が、今は強大に見えた。

 どうしよう。逃げてしまいたい。否、逃げてしまっても葵は僕のことを許さないだろう。それでもここにいるよりはずっとましだと思った。

 大丈夫だ、葵の華奢な腕なら撥ね退けられる。心配することはない。やる、やるぞ――

「逃げるな」

 ――!

 僕が葵の左腕を右手で払おうと、少し持ち上げた瞬間だった。逃げるな、という言葉を実現させるために葵は僕の右腕を掴んだ。

 筋肉に、痛みが走る。葵の手が、爪が、僕の右腕を支配する。

 ああ、逃げることさえ叶わなくなった。どうされてしまうのだろう。今から、葵は何をするつもりなのか。

「――……きみ、もういいや」

 ふ、と葵の瞳から怒りの炎が消えた。

 それ以外の、全ての光も、消え去った。

 何が葵をそうさせたのか、何を思ってそんな表情をしたのだろうか。わからない。わからない。

 必死に思考を巡らせていると、僕を解放し、葵自身も大きな感情を解放した。

「あーあ。気に入ってたのになぁ」

 まるで、玩具を傷つけてしまった子供のように、葵は僕に語りかける。気に入っていたというのは、僕のこと、なのだろう。だが、言葉が表しているのは過去の形だ。今を表現するものでも、未来を表現するものでもない。

 捨て、られる。

 もう要らないのだ。

 玩具にされているという自覚は薄々あった。それでも、葵の魅力に、葵の心情に、葵の思考に、葵の、葵の……全て、に。

 いつの間にか惹かれていた。甘い泥に浸るように、葵の言動が示す全てに従っていた。それが幸福であり、快楽であり、愉悦であり、同時に葵にとってもそうであると信じていた。

 だが、もう葵の中に僕はいないのだ。きっともう二度と、泥を啜ることはできないだろう。そう思うと、この先の人生が地獄で作られているのだという真理に辿り着いてしまいそうだった。

「ああ。そうだ。……いいこと、思いついちゃった」

 いいこと?

 それは何だ。どんないいことがあるのだ。僕は、縋るように葵に乞う。いいこと、とやらに僕を関らせてくれと、葵の美しい眼差しが僕を照らしてくれるなら、何だってしよう。

 何度もそんなことを叫び続けた。最終的には葵の足元に跪いてまで。

 葵は、僕が跪いている間に携帯電話で誰かに連絡を取っている。何度かの着信音がやりとりをしていることを示していたが、僕は葵が見る画面の向こうにいるのが誰なのか、わからない。

 ちりんちりんと鈴のような音が数回なって、葵が携帯電話を操作して。

 そして、葵は顔を上げ、僕に笑いかけて言った。

「明日を楽しみにしてて」

 笑顔は、この世の全ての喜びを集めたかのような、純粋で、無邪気な、ただ明日が来ることを信じてやまない幼い子供のようなものだった。

 最後に葵は僕の頬を優しく撫で、ひとつ頷くと踵を返した。

「それじゃあね」

 いつの間にかすっかり外は紅い夕焼けの景色になっている。

 暖色の光に煌めく葵の銀色の髪は絹糸のようで。

 やわらかく弧を描く薄い唇は熟れた果実のようで。

 蝶と見紛うほどに豊かな(まつげ)に包まれた青を孕んだ灰色の瞳は、命を持った硝子玉のようで。

 それらは全て〈いつも通りの葵〉だった。

 教室から出ていく葵の姿を、僕は床にだらしなく跪いたまま見送った。

 それから、僕は数日間に渡って苦しむことになった。

 突然で、苛烈だった。

 言葉通りに、(はげ)しい苛まれ方だった。本当に苛烈だった。

 誰も彼も敵だ。そうとしか思えない。否、自分自身も敵なのかもしれない。

 それほどまでに、僕は疲弊していた。数日間の道のりで、だ。

 痛い。痛い。痛い。痛い。

 眼が僕を忌避する。

 声が怨嗟を吐き出す。

 態度が突き放す。

 僕はとにかくそういった痛みに耐えなければならなかった。

 いわゆる〈いじめ〉とは違う、異質なものだった。

 まるで僕がこの世界にいるのが異常で、どうしてそこに存在するのかと疑念を抱かれているようだ。

 異常者がこの世界に紛れ込んでいる。

 ならば、それを排除してしまおう。そんな心理が働いたのだろう。見知った級友からただの同級生、ひいては先輩後輩からも排除せんという行為を受けた。

 ときに暴力であり、ときに金銭の強奪であり、ときに悪戯であった。

 ありとあらゆる陰湿な行為が、僕に降り注いだ。

 誰かに相談することができたら、少しはましになったかもしれない。

 だが、教師も僕が悪いことをしたのだ、苛まれても仕方がない、と取り合ってくれなかった。

 どうしてこんなことになったのかわからない。僕は何もしていない。

 街にいる人々まで、僕のことを避けているような、嫌な噂をしているような気がする。

 学校でさえそんな有り様だというのに、街でもか、と辟易した。

 幸いなことに家には父母がいない。出張だかに行き暫く返ってこないというのだ。そのため、僕はたった独り残された自分の家で、なんとか息をつくことができた。

 即席で食べられるようなものが、父母の手により数種類ばかり用意されていたが、食事を摂る気になれなかった。水分を最低限、摂取して。あとは自室に閉じこもっていた。

 あんまりだ。どこにも居場所がない。

 部屋の隅にある布団の上で震える。頭から毛布をかけて外気から身を守った。それでも、耳朶に幻聴が入り込むのを止めることができなかった。

 いつ、こうなってしまったのか。きっかけも、始まりもわからない。

 もしかしたら、始まりがない分だけ終わりも無いのかもしれない。

 ああ、もうだめだ。

 最後に、葵に会いに行こう。葵に、これまで一緒にいてくれてありがとうと。一緒にいる間はとても幸せだったよと。そう告げて、僕は自死を遂げよう。

 そう決めてから、携帯電話を鈍い動作で操作した。

 葵からの返信は、すぐにきた。

「あそこの、倉庫の中でね」

 文字列をなんとか視認し、無理やり見てくれが悪くなくなる程度の服に着替える。

 そして、履き潰しかけているぼろぼろの運動靴に足を突っ込んで、鍵もかけないまま、生きた屍のように指定された場所へ向かった。

 僕と葵がいつも遊んでいた廃倉庫に入る。

 錆びに侵され打ち捨てられた鉄骨たちが、幾本も積み重ねられたその上――一番高い場所に、葵は座っていた。

 穴が空いた天井から洩れる月光に、鉄骨の頂点に座る葵が照らされ、まるで葵が玉座に座す夜の王のようだ。

「来てくれたんだ」

 ああ、この甘い声だ。

 この蕩けるほどの甘い声が、僕は大好きなのだ。

 やっと笑ってくれた。やっと僕に笑いかけてくれた。葵が、神に等しい存在の葵が、微笑んでくれた。

 何度も何度も葵との付き合いが間違っているものなのではないか、と考えたことがあった。原因は僕が葵にとって不利益になっているのではないかという猜疑心のためだ。

 だがそんなことはなかったのだ。

 こうして、葵は僕のことを愛おしい目で見てくれているのだから。

 僕は、まだ葵の傍に居られるのだ。

「最近、ちょっと大変みたいだね。きみ、辛くないの?」

 少し口ごもってから。僕は今の状態が辛いと、脱却したいと、言った。同時に、自分でさえも僕の敵に感じているため、どうすることもできないのだとも伝えた。

「じゃあさ。ぼくが助けてあげる」

 世界が、輝いた。僕の崇拝する葵が、僕を助けてくれるというのだ。

 これ以上の幸福はない。あまりの感動に、僕の膝が崩れ、砂とも埃ともつかないものが積もった倉庫の床に、落ちた。

 終わるのだ。辛い時間が。それも、葵の手で。

 涙が出てきた。よかった、と思った。

「ね、約束して。どんなことになっても、きみはぼくの可愛いお人形(・・・)さん(・・)でいてくれる、って」

 約束しよう。約束しようとも。

 葵とともにあれるならば、そんなこと容易い。葵のためなら、僕は僕の何を犠牲にしても良い。

 がくがくと痙攣でもしたかのように、僕は肯定のため首を縦に振る。

 僕の滑稽な姿を見て、葵はゆったりと、熟れた唇に笑みを浮かべた。

「はい、これ」

 葵は迷いなく僕に細い試験管を投げた。なんとか受け取り、眺める。栓がしてあるが、捻れば簡単に開けることができそうだ。

 ……これは?

「それを飲んで」

 疑問に思っていたのを悟ったかのように、葵は告げた。

 中身は、何だろう。葵に問うてみる。

「〈きみがいる世界〉を終わりにする薬、だよ」

 僕のいる世界。なんだか、抽象的でよくわからない。もしかしたら、苛烈な数日間のせいで疲れ切っていて、頭が痺れているのかもしれない。

 だが、終わりにする薬ということは、これを飲んだら苛烈な生活から救われる、ということだ。

「大丈夫。少し苦いけど、それだけだよ」

 大丈夫と葵が言うのであれば、飲んだところで葵の思い通りになるだけだ。

 覚悟なんてとうに決めている。倉庫に這入(はい)ったときにはもう、葵の言いなりになることだけを考えていたのだから。

 僕は、栓を外して一気に中身をあおった。確かに苦い。だが我慢できないほどではない。痺れるような刺激もあるが、身体が拒否をするということもなかった。

 飲み終わって、はあ、と息を吐く。葵の方を向いて誇らしげに微笑む。葵も、喜んでくれたようで楽しそうな笑顔を僕に投げかけた。

「偉い、偉い! よくできたね。褒めてあげる。きみはやっぱり、ぼくの可愛いお人形さんだ」

 子供のように無邪気な表情で、手を叩きながら葵は立ち上がる。階段状になっている鉄骨を踏み、ゆっくりと僕の傍に降り立つ。

 葵、僕はやれたよ。これで、救われるのだろう?

 問いかけようとした瞬間だった。

ごぼ、が、がばば、げぇ――

 地面の上で溺れ死んだ。

 魚のように、自分が摂取できるはずの空気を欲して口を開閉する。その度、赤い、否、紅い、否、赤黒い、否……名状しがたい、赤を基調とした謎の色の液体が僕の口からあふれ出した。

 どうして僕は、葵の前でこんな醜いものを吐き出しているんだ? これでは葵の洋服を汚してしまうではないか。

 考えている間にも、僕の口から液体はあふれ出る。下着の中も何らかの液体に塗れていく。

 嫌だ、嫌だ、これは何だ。

「いい薬、でしょ?」

 いい薬。ということは、先ほど飲んだ試験管の中身がこの現象を引き起こしているということか。

 悟った数秒後、僕の身体に激しい痛みが襲い掛かった。

 稲妻が落ちたのかと思うほどだ。身体が灼けている。違う、むしろ溶解していっている。

 内臓から、僕の身体が溶かされていく。

 辛うじて残っている骨と筋肉、皮下脂肪。残っていたもの全てに痛みが走った。なまじ残っていただけ、痛みが激しい。痛覚が総じて雷に打たれたような感覚だ。

「あははっ、綺麗だね」

 僕は、葵に見下ろされていた。葵が僕のいる床の位置にまで降りてきたというのに、だ。いつの間にか、僕は無様な恰好になっていた。跪くでも崩れ落ちるでもなく、赤色の海に沈んでいた。

 葵は濁り、固まり始めた赤い血の海の中、くるりと踊るように一回転した。

 ぐしゃりと血液が飛び散って、海に落ちる。やわらかい生菓子の様に震えて、海の中に姿を消した。沈んでいくのを見送ってから、葵は僕に向き直る。

「ねえ。きみ、良い子だったね。本当に、可愛い、素敵なお人形さんだった(・・・・・・・・)よ」

 過去、形。

 また過去形になってしまった。僕は。もう。人形。玩具。何も。

 考え、が、あ、ああ……あ、

「傷がついたきみのこと、最後に思い切り壊したかったんだ」

 壊したかった。

 葵が、壊したかったなら……最後に、僕を愛してくれたんだから。

「愛していたよ。可愛かったよ。大好きだったよ。最後まで、こうやってぼくのことを全部信じて、いつでもぼくを守って、何をしてもぼくの味方でいてくれた、きみのこと」

 葵を、守った。そうだ、僕は何に変えても葵のことを守ってきた。

 悲しまないように。苦しまないように。辛いことがないように。

「だから、最後まできみの味方をしようって。決めてたんだ」

 愛してくれた。

 そうか、愛してくれたのだ。

 なら、いいか――

「だから――」

 …………?

「傷が入ったら、もう玩具じゃないでしょう? だったら、最後は壊してあげようって、決めたんだ。最後まできみの味方でいるために」

 最後……、と、言った。今、葵は最後と言った。

「傷がついた要らないものは、責任もって棄てなくちゃ。ああ、すっきりした」

 そうか。僕はもう要らないんだ。

 なんとか葵の顔を見ようと。最後にあの麗しい顔を見て、葵の意味するところの〈最後〉を迎えようと思った。

 葵を見上げると、秀麗な瞳を嫌悪に歪め、僕に怒りの感情を向けた。

「汚い眼で、見ないで」

 何か、細かい凹凸がついている球状のものを転がされたような触感を頭に感じた。

 葵の黒い革靴で頭を踏まれたのだ。

 最後にほんのちらりと見えた顔は。

 あのとき感じた寂しさが、微量に、ごくごく微量に含まれていた。そんな、気がした。

「その眼、嫌い」

 思い切り頭を蹴られた。その拍子に、僕の首があり得ない方向を向いた。

 もう、い、い おわり

「ばいばい、ゴミクズ」

 きこえた、けど

 もう、めのまえが、くらく――

【最後は味方 了】

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葵の花が零れるころに、【第二回】

【第二回】

 ゆっくりと蝶が羽ばたくように、彼の白銀の睫が動いた。

 美しい顔だ。改めてそう思う。物憂げな表情が語るのは、この先の未来についての不安だ。

「ねえ、どうする?」

 僕と彼、葵は進路調査票を机の上に乗せて、ひとつの机を半分ずつ使い、悩んでいた。

 どうせならば、僕は葵の通う大学に行きたい。それがどんな場所でも、僕は構わない。絶対に、葵に追いついてみせる。そう、告げた。

「……この前のも、そうだったな」

 この前?

 どういう意味だろうか。葵は何かを考えている。しっとりと、茂る睫を揺らしながら、調査票の空欄と、その上に書いてある概要を読み直している。

「ねえ、君さ」

 不意に、葵の瞳が僕の方を向く。何事か、と僕も向き直ると、葵は言った。

「一緒に死のう、ってぼくが言ったらどうするの?」

 ――何を、言い出すのだ。

 まだ葵に死んでもらいたくない。この先も、ずっと一緒に生きていくのだ。

 僕はそのために、葵のことを何よりも大事にしてきた。

 痛めつけられればその痛みを喜び、蔑まれれば敬い畏まる。

 それらの行為が葵の感情を動かすのならば、否、たとえ葵にとっての気紛れの、無為なものでも僕はそうしただろう。

 それは葵の刹那的な美しさや、甘い声色、華奢な肉体だけが魅力だったのではない。

 世界を破綻させかねない倫理観がとてつもなく愛おしく、何を投げ打ってでも理解をしたいと思わせる〈何か〉があったのだ。

 どうしようもなく無力で、何をしてもこの世界を変えることはできない。そんな当たり前で済まされるようなことを、葵は拒絶していた。

「一体、誰がこの世界で生きていきなさい、って決めたんだろうね」

 僕には、わからない。親のせい、親類のせい、祖先のせい……様々な要因は考えられる。偶然と運命が複雑に絡み合ったこの縁を生んだのは、きっと人が言う〈カミサマ〉というやつなのだろう。

 僕はそう答えた。

「あっはは。だから君はさぁ」

 明るく、葵は笑う。僕の言葉の何が面白かったのだろうか。

 呆然と葵を見ていると、彼はいきなり椅子から立ち上がり、僕の手を取った。

「行こ。いい場所があるんだ」

 有無を言わせないその言動に、僕は従う他ない。

 結局、夕暮れの教室に鞄も教科書も――調査票も置いたまま、僕は葵に連れられていった。

 いい場所というのは、旧校舎の屋上だった。

 木造とはいえ、それなりの高さがある。きっと、落ちたらどうしようもなくぐしゃりと潰れて、肉塊と化すだろう。

「ね、そこ」

 葵が示した場所を見ると、屋上に建てられているフェンスが一部、錆びて朽ちて、穴が開いていた。

 ここから、飛び降りるつもりだ。

 生唾を飲む。先ほどの葵の言葉が現実になろうとしている。

「ほら、立って」

 葵は楽しそうに、上靴を脱ぎ散らかす。揃えようという気持ちはないらしい。

 ああ、これから死ぬのに靴をそろえようとか、ナンセンスなのだろう。僕は葵に倣って靴を脱ぎ、その辺に放った。

 屋上の縁に立つと、かなり恐怖を感じる。ここから飛び降りるのか……物怖じする。そんな僕を、葵は笑う。

「なにしてんのさ」

 僕は応えらえない。何を言ったらいいのかわからない、

 だがひとつだけ言える。まだ死にたくない。この先、何があるのかわからないけれど、どうなるのかわからないけど、でも、きっと死ぬのは間違っている。

 そう、僕が言うと。

「へぇ」

 す、と。

 葵の表情から笑顔と、温度が消えた。

 こんな表情を――浮かべるなんて。

 間違ってしまったのだ。きっと僕は間違いをしてしまったのだ。

 どうにか撤回しなくては。

 焦る。僕は小鹿のように震える両脚を抑えることもできないまま、しどろもどろに言葉を並べ立てる。

 しかし、葵の表情が変わることはない。

 ……どうして、だ。

「きみ、もう要らない」

 要らない?

 要らない、とは、僕がもう必要ないということ、か。

 葵にとって、必要ないということか。

 乾いた笑いが喉から漏れた。もう何も言うことはない。

 何も考えることができない。思考停止。フリーズ。どう呼んでもいいが、脳味噌が理解を拒否していることに変わりない。

「じゃあさ、ぼくから最後のお願い」

 お願いがある! それはもしかしたら、巧くいけば最後にならないかもしれない。

 叶えよう。約束する。必ずやり遂げて見せる。絶対に遂行する。ああ、今日だけで何度、葵に誤魔化しのような言葉を言ってしまっただろうか。それでも、これは本気で、本当だ。

 最後の最後になってしまっても構わない。どうかやらせてほしい。

「そう? じゃあ。ぼくに、紅い花を頂戴?」

 意味が、わから、ない。

 紅い花? どういうことだ? 何だ、それは。

 僕がそれは何かを考えていると、葵は縁のさらに一段上がった、一歩でも踏み間違えれば真っ逆さまに落ちてしまう、という場所に登って、

「簡単だよ、こうしたらいい」

 言いながら、葵は体を少しずつ傾ける。目を細め、幸せそうな表情で、落ちそうになる。だから僕は、その手を握って、握り返されて――

――一瞬、だった。

 僕の体が落ちていく。葵が、僕の手を引き、振り回すようにして遠心力を使って僕と葵の位置を入れ替えたのだ。

――――……!

 僕の無様な声が響き、ぐしゃん、と湿った音が鳴った。

 …………どうしてだ? まだ意識がある。

 ああ、そうか。一命をとりとめた、というやつか。だが、なんとなくわかった。僕はこのまま死ぬのだ。

 薄暗くなった視界に、葵が映り込む。

「綺麗だったよ」

 葵は、灰色の、見方によっては薄青にも見える虹彩で僕を見る。白銀の蝶が、虹彩を囲んでいた。

 ああ、葵はとても嬉しそうだ。

 よかった、願いを叶えることができた。

 これでもう、進路に悩むこともない、な。

「さて、と。〈これ〉も壊れちゃったなぁ」

 葵は、伸びをして言った。

 これ、も?

 僕は、じゃあ、ただの葵の玩具だったというのか。

「ばいばい、くらいは言おうかな。ね」

 葵は、血液と涎で汚れた僕の唇に、やわらかい薄桃色の儚い唇を重ねた。

「じゃあね。ばいばい」

 意味ありげな瞳が、僕を射貫く。

 楽しんだ玩具が壊れてしまったときのような。後悔のない悲しみに浸るような。

 ああ、彼のこの美しい表情を、何と表現したらいいのだろう。

 最後に見れて、よかった。

「おやすみ、×××××」

 聞こえた声を合図に、僕は絶命した。

 視界が闇に閉ざされる瞬間には、もう、葵の姿は無かった。

【意味ありげな瞳――了】

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葵の花が零れるころに、【第一回】

【第一回】

 しとりと、落とされた。

 やわらかく、蕩けるような感覚がした。

 兎角、この愛情に溺れたい。それだけを考えた。

 彼の甘い唇が、熱を持って俺を快楽の海に沈めていく。

 右手が、溶けてしまいそうな。そんな想像に駆られた。

 同じ部活。同じクラス。同じ学科。

 たったそれだけの関係のはずだった。

 ぼんやりと教室の連中を眺めていた。その中で、特別に光っていたのが彼だった。

 どうしてか、いつの間にか彼のことを目で追うようになっていた。

 俺が、あいつのことを好きになったら?

 はて、と思った。自分に愛だの恋だの、そういった感情があるとは思えなかったからだ。

 そもそも、俺は自分に愛する人間というものができるとは思っていない。何故かと言えば、俺は矮小で、卑屈で、芥で塵で、屑だから。それくらい、酷く壊れたできそこないだから。

 何度も何度も、親にそう教えられた。

 俺にはそれだけの価値しかなかった。

 それなのに、だ。

 彼は、今。

 俺の目の前で、俺の手に、甘いくちづけを落としたのだ。

「ねえ、ぼくのこと、好き?」

 どきりとした。

 彼は、とてもとても美しい瞳を俺に向けた。灰色がかったその虹彩は、光の加減によって蒼玉のように輝く。

 細い手指で包まれた俺の手は、ごつごつと武骨で、醜い。

「ぼくのこと、好きでしょ」

 今度は、断定の言葉だった。俺は、どうすることもできず彼のことを見る。

 何かを言いたかった。しかし、俺は彼の名前すら覚えていない。クラスメイトの名前など、覚える必要がないと思っていたから。

 ああ、しまった。彼の名前だけでも名簿で確認しておくべきだった。

「葵」

 え、と。俺の口から間抜けな声が洩れた。一度だけでは、意味を掴めなかった。

 それを察してくれたのか。もう一度、確認させるように彼は言う。

「葵。あおい、だよ。ぼくの名前」

 そうか。彼は葵というのか。やっと、彼の名前を手に入れた。

「わかってるよ。君は、とっても醜い心を持っているってこと」

 精神の痛みが、増した。只でさえ葵にくちづけをされて困惑と悦楽に迷っているところに、さらに揺さぶりがかかったのだ。

 まともに考えることが、できなくなった。どうしよう、どうして。そればかりが浮かぶ。

「君、ぼくの奴隷にならない?」

 どれい。

 どれい、というのは。あの奴隷だろうか。

「ぼくが呼んだらすぐに来ること。ぼくが求めたら、絶対にそれを与えること。ぼくが拒絶しても、永遠にそばにいること」

 難しい。否、難しいというよりも不可能なのではないか、と思わせる内容。

 だが――それを、呑み込んだ。

「いいね。気に入った。そうだ。君、名前は?」

 俺は、名前に関して告げた。

 親にもらった名が嫌いで嫌いで、仕方がないと。

 どうせなら、奴隷として名前を付けて欲しい、と。

 そうしたら、葵はううん、とひとつ唸って。

「じゃあ、君のことは栗花落(つゆり)って呼ぶよ」

 つゆり。聞いただけでは漢字を想像することができない。

 そう思っていると、葵は俺の右手を持っている手を返し、手のひらに栗、花、落、と書いた。

「ぼくの名前、葵が咲く季節……梅雨入りの頃の、言葉だよ」

 なんて、素敵な名をつけてくれるのか。

 あまりの、愛情に、俺は涙を流してしまいそうになる。

 滲んでいた俺の涙を、葵は美しい手で拭った。

「大丈夫だよ、泣かないで。もう、ぼくがいるから。ぼくだけを見ていて」

 わかった。わかったよ。俺は何度、頷いたかわからない。

 俺の名前は、栗花落だ。そして、葵の奴隷だ。

 だから、葵が求めるなら、何でもしよう。絶対にだ。

「――飽いたオモチャは捨てなくちゃ」

 その言葉が、何を意味するのか。

 俺にはわからなかった。

 いずれ――知ることに、なる。

【熱い唇――了】

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