哲学的生命体

 「実は僕、人間じゃないんだ」

 彼ははいきなり、俺にそう明かした。

 何を言っているんだ。つい先程までコーヒーを飲んで、その前はトマトが嫌いとか言いながら朝食を残さず食べて、ふたつその前はしっかり眠って、さらにその前は二人の営みをして――なんだ、その文言は?

「聞いてくれなくてもいいけどさ。でも、本当なんだ。いつからだったかな。突然、僕という人間は『人間』ではないって、そう確かに感じたんだ」

 感じたって、感じただけじゃないか。俺はそう反論した。

 感じることなんか誰にだってできるし、考えることは誰にだってできる。思い込むことだって、意外と簡単にできてしまう。だろう?

「でも、僕はやっぱり人間じゃないんだよ。ほら、見て」

 そう言って、両手首を見せてきた。何が、と思い覗き込んでみる。真っ白で滑らかな肌が、血管を透かしている。鍛えてるとは言いがたいが、きちんと筋肉と骨で構成されているのであろう、手首。どこからどうみても、右手首と左手首だ。

「こんなに人間らしく作ってあるだろう? どこからどう見ても、人間だとしか思えない。それこそが、僕が人間ではないという証明なんじゃないかって。そう疑ったんだ」

 ああ、疑っただけね。はいはい。それだけなら誰にでも言えるよね。オッケー、それだけだな。じゃあ商談を始めよう。そう言いきろうとした俺に、相手は食って掛かる。

「待ってくれよ。こんなに思い悩んでいるんだ。もう人間じゃないのに、僕はこれからどうしたらいいんだ。ここまで人間として生きてきて、いきなりガソリンを飲めとか睡眠をとるなとか、他のものに従えなんて言われて、できるわけない!」

 じゃあしなければいいだろう。

「そんなわけにもいかない……そうだろう……?」

 いいや、そんなことはない。俺から見れば、おまえは立派な人間だ。きちんとした人間だ。だから、人間であることを誇れ。人間だということに矜持を持て。人間という生物として生きろ。

 きっぱりと、そう言いきった。言いすぎたか、と瞳を伏せると、携帯の画面が通知を寄越していた。時間だ。

 ちょっと待っててくれ、用事だ。

 俺は席を立った。あまり思い詰めるなよ。そう声をかけながら。

 乗ってきた車に乗り込んで、鏡を見た。

 うん。俺だってどこからどう見ても人間だ。あいつと同じようにコーヒーを嗜んで、朝食を済ませ、一晩を過ごし、二人の営みをして、先程まで談笑していた人間だ。

 ひとつため息をついて、俺は鏡を見るのをやめる。これ以上、見ていても自分を傷つけるだけだ。

 俺は、白く滑らかな肌と、しっかりとした筋肉と骨で構成されていそうな左手首を、ぼきりと真横に折りたたむ。

 そこには様々な規格に対応したいくつかのプラグや、ごちゃごちゃとしたコード、銘々に点滅を繰り返すランプなどがひしめいていた。

 俺はプラグの中のひとつに、車のハンドルから延びるコードをさした。車の電源を使って、己に積まれた電子回路のバッテリーを回復しようというのだ。

 ああ、あいつにもいつか言わなくちゃならない。自分を、死体や機械、生き物ではないと思い込む奇病――コタール症候群にかかったからと俺に見張りをされている、あいつにも。

 いつか言わなくちゃならないんだ。俺の中身は鉄屑と銅線とシリコンなんかで構成されているんだって。

 さあ、涙を飲んで練習しよう。俺は折れている左手首を見ながら、口にした。

「実は俺、人間じゃないんだ」

【了】

4