【第一回】
しとりと、落とされた。
やわらかく、蕩けるような感覚がした。
兎角、この愛情に溺れたい。それだけを考えた。
彼の甘い唇が、熱を持って俺を快楽の海に沈めていく。
右手が、溶けてしまいそうな。そんな想像に駆られた。
同じ部活。同じクラス。同じ学科。
たったそれだけの関係のはずだった。
ぼんやりと教室の連中を眺めていた。その中で、特別に光っていたのが彼だった。
どうしてか、いつの間にか彼のことを目で追うようになっていた。
俺が、あいつのことを好きになったら?
はて、と思った。自分に愛だの恋だの、そういった感情があるとは思えなかったからだ。
そもそも、俺は自分に愛する人間というものができるとは思っていない。何故かと言えば、俺は矮小で、卑屈で、芥で塵で、屑だから。それくらい、酷く壊れたできそこないだから。
何度も何度も、親にそう教えられた。
俺にはそれだけの価値しかなかった。
それなのに、だ。
彼は、今。
俺の目の前で、俺の手に、甘いくちづけを落としたのだ。
「ねえ、ぼくのこと、好き?」
どきりとした。
彼は、とてもとても美しい瞳を俺に向けた。灰色がかったその虹彩は、光の加減によって蒼玉のように輝く。
細い手指で包まれた俺の手は、ごつごつと武骨で、醜い。
「ぼくのこと、好きでしょ」
今度は、断定の言葉だった。俺は、どうすることもできず彼のことを見る。
何かを言いたかった。しかし、俺は彼の名前すら覚えていない。クラスメイトの名前など、覚える必要がないと思っていたから。
ああ、しまった。彼の名前だけでも名簿で確認しておくべきだった。
「葵」
え、と。俺の口から間抜けな声が洩れた。一度だけでは、意味を掴めなかった。
それを察してくれたのか。もう一度、確認させるように彼は言う。
「葵。あおい、だよ。ぼくの名前」
そうか。彼は葵というのか。やっと、彼の名前を手に入れた。
「わかってるよ。君は、とっても醜い心を持っているってこと」
精神の痛みが、増した。只でさえ葵にくちづけをされて困惑と悦楽に迷っているところに、さらに揺さぶりがかかったのだ。
まともに考えることが、できなくなった。どうしよう、どうして。そればかりが浮かぶ。
「君、ぼくの奴隷にならない?」
どれい。
どれい、というのは。あの奴隷だろうか。
「ぼくが呼んだらすぐに来ること。ぼくが求めたら、絶対にそれを与えること。ぼくが拒絶しても、永遠にそばにいること」
難しい。否、難しいというよりも不可能なのではないか、と思わせる内容。
だが――それを、呑み込んだ。
「いいね。気に入った。そうだ。君、名前は?」
俺は、名前に関して告げた。
親にもらった名が嫌いで嫌いで、仕方がないと。
どうせなら、奴隷として名前を付けて欲しい、と。
そうしたら、葵はううん、とひとつ唸って。
「じゃあ、君のことは栗花落って呼ぶよ」
つゆり。聞いただけでは漢字を想像することができない。
そう思っていると、葵は俺の右手を持っている手を返し、手のひらに栗、花、落、と書いた。
「ぼくの名前、葵が咲く季節……梅雨入りの頃の、言葉だよ」
なんて、素敵な名をつけてくれるのか。
あまりの、愛情に、俺は涙を流してしまいそうになる。
滲んでいた俺の涙を、葵は美しい手で拭った。
「大丈夫だよ、泣かないで。もう、ぼくがいるから。ぼくだけを見ていて」
わかった。わかったよ。俺は何度、頷いたかわからない。
俺の名前は、栗花落だ。そして、葵の奴隷だ。
だから、葵が求めるなら、何でもしよう。絶対にだ。
「――飽いたオモチャは捨てなくちゃ」
その言葉が、何を意味するのか。
俺にはわからなかった。
いずれ――知ることに、なる。
【熱い唇――了】
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